久しぶりの更新です。緋雨です。
今日はいつもと少し違います。大学生活とか一人暮らしのことではなく家族とか自分の話をします。
私は3人兄妹の真ん中っ子。2歳上の兄と2歳下の妹がいます。
真ん中っ子として育った私が感じてきたこととか私の目から見た親や兄妹の話をしてみたいと思います。
簡単に兄妹がどんな人か紹介しておきます。
兄は成績がとてもいいわけでも運動が得意というわけでもなく、大抵のことは平均より少し上くらいかなといった感じ。優しくて家族が困っていると放っておけない人。
妹は成績の偏りが大きく苦手なことはとことん苦手で運動は平均程度か少し上くらい。甘えん坊ですぐに人に頼って自分で何かを判断しようとしない人。
では、昔話をしながら私が感じてきたことをお話しましょう。
私は小学生の頃から勉強は得意だけど運動は苦手でした。そして目立つこと、特にリーダーのような立ち位置が好きでした。
いつも生活班の班長になり、クラス代表にも何度もなりました。小学校の児童会役員や中学校の生徒会役員にもなりました。
運動は諦めていたものの勉強は頑張っていたので中学生までは学年の上位にいたのを覚えています。
私はおそらく自立心が強い方だと思います。
幼い頃からずっと自分の中にあるのは
「自分がしっかりしなくちゃ。私は親に心配をかけるわけにはいかない。」
という思いでした。
親も初めてで放っておけない兄。
いつまでも幼くて放っておけない妹。
親の注意はそんな2人に向かうのか、
緋雨は大丈夫でしょ、と放置される私。
大丈夫でしょ。と言われ続けると大丈夫だと自分に言い聞かせるようになるのです。自分は大丈夫じゃないといけないのだと。
親はよく緋雨に任せると安心だとも言いました。私はその言葉でさらに親を頼ることができなくなりました。
私だって親の関心を引きたかったのです。
親は私に大丈夫であることを求めたので私はそれに答える術しか知りませんでした。
兄や妹に負けないことが私には勉強くらいしか思いつきませんでした。
漢検や英検などの検定はどんどん受けて学年よりも上の級も取得しました。テスト等もいつも高得点でした。
しかし、親に褒められたことはあまり記憶にないのです。どんなに上の級に受かってもテストで100点をとっても親から褒められた覚えはありません。
それでも私は親にもっと自分を見てほしかったのです。その思いを諦めることはできませんでした。
でも、中学生のとき私は諦めるしかないと思うようになりました。その決め手となった2つの出来事を私はきっと忘れられないでしょう。
中学生になって初めての成績を渡された三者面談。私の成績を見た親はため息を漏らしたのです。私にとっては良すぎる成績でした。それでも母の求めるものには及ばないのかと落ち込みました。どうすれば親は私を見てくれるのかと認めてくれるのかと悩みました。
その後もテストで90点台後半ばかり取ろうと100点を取ろうと褒められることはなく、親の求めるものの高さに苦しんでいました。
3年生のある日、1年生の妹のテストが返却されました。私が取った点数よりもかなり低い点数に安心したのを覚えています。私はまだ負けていない、と。けれどその私よりも低い点数を親に見せた妹はなぜか褒められているのです。よく頑張ったな、と。
親は私がどれだけ頑張ろうと私を見てはくれないのだろうか、と悲しくなったと同時に親に私を見てと期待するのは辞めようと思うようになりました。
親への様々な期待を捨てることにしたのです。私を見てくれと頑張れば頑張るほど大丈夫だと思われて見てもらえないままだとなんとなく気づいてきていました。
この頃は自分の幼さもあって簡単に私のほしい言葉をかけられる妹が妬ましく勝手に嫌っていました。
私は小学校高学年辺りから高校卒業までの間に何度も様々な悩みを抱え誰かに相談したいと思いました。それでも両親に相談するという選択肢はありませんでした。
親への頼り方も甘え方も私は知りません。
ずっと自分のことは自分でなんとかしなくてはと思っていました。
私が直面した問題を親は解決してからしか聞いていないでしょう。
高校入試は親に心配をかけないために余裕を持ちました。大学入試はセンター試験の結果が目標に届かず、出願をどうするか悩みました。このときばかりは親の意見も聞きましたが、わかりきっていることしか言われず何も参考にはなりませんでした。結局、全て自分で決断を下しました。
大学入試で親は私に私立なし、浪人もなし、奨学金を借りるという条件を出しました。妹のことも考えると私立や浪人が難しいのは納得ができました。
しかし2年後、妹の大学入試の際に親は私立も考えるしかないか、と言い出したのです。
この時も仕方ないかと言われる妹に対して複雑な心境でした。私が同じ状況なら仕方ないなんて言わないだろうな、と。
私は自分がどうしたいのかをあまり知りませんでした。自分がどうしたいのかよりも親が求めているものは何か、どうすれば自分を見てくれるのかが私にとっては重要だったためです。就活を進める中で今はそれに苦しめられています。
実は私は小学生の頃から実家を出る日を心待ちにしていました。親の前で弱さを見せることは出来ないと思っていた私は小中学生のときからずっと何かあるとノートにひたすら感情を吐き出していました。何冊にも渡るそれには、こんな家出たい。私を認めて。頑張ってるのに。などと親に言いたくても言えなかった気持ちが書き殴られています。時折、あとどれくらいで家を出られるなども考えていました。あのノートだけは親に見られるわけにはいきません。
今になって思えば当時はとても寂しかったのかもしれません。いつも兄や妹のことや仕事などで大変そうな両親に自分まで迷惑はかけられないという思い。私は大丈夫だという思い込みにより自分の弱さを認められない状態。自分の中の様々な感情が入り交じって私は甘えることができませんでした。
ずっと自分のことも見てほしい。そんな寂しさの中にいたのかもしれないと思うようになりました。
大学生になり以前よりも色々な情報を耳にするようになり、生まれ順に関する話を知りました。中間子の性格的なことは自分にも良くあてはまり、同じように寂しさを感じていた人がいることを知りました。
実は昔話をしたり同じ中間子の話を読んで思い返したりするとなぜか涙が止まらなくなるのです。これを書いている今も涙が止まりません。何が悲しいのか辛いのかは分かりません。ただただ涙が流れるのです。これはなぜなのでしょうね。
きっと私は中学生のあの日、親への期待を捨てようとしたけど捨てきれなかったのです。今でもきっと親への期待は持ったままなんだと思います。
直接伝えられなかった思いはこの先も伝えることはありません。私は自分が抱え続けてきたこの気持ちを上手く親に伝えられるとは思えないし、今から干渉されてもどうしていいのか分からないのです。そして何より、もし伝えることで自分がまた傷つくことになったら耐えられないと思います。
でもあの頃に比べて大人になってきて色々なものが見えるようになった今は少しだけ嫌ってきた両親を許せるかもしれません。
幼い頃からなんとなく引っかかっていたもの。
なんとなく居心地の悪いような感覚。
それが寂しさだとは気づいていませんでした。自分は寂しかったんだと自覚すると自分だけは自分のことを大切にしようと思いました。
私は兄妹で1番両親の関心が向いていなかったのではないかと今でも思っています。でも私にはいつも味方でいてくれる祖父母がいます。祖父母が私の努力を認め私を見てくれたので私は折れずにいられたのかもしれません。
どうやったって子供たちへの関心を平等にすることなんてできないと思います。
親は2人しかいないしそれぞれに1番がいるのは仕方ない気がします。
だから親でなくても誰かが自分を1番にしてくれたらそれだけでうれしいことなんです。
同じように寂しい思いをした人、している人に私にとっての祖父母のような味方がいることを願っています。
真ん中っ子の性格的な特徴っていろいろ言われているけど、根本にあるのは寂しさかもしれません。
人に甘えたり頼ったりするのは苦手だけどたまには甘えたいし助けてほしい。
なかなか口には出せないけどそう思っていることも知っていてほしいなと思います。
同じように寂しい思いをしてきた中間子の人たち。
少しだけでも思いを言葉にしてみませんか?
そして周りに中間子がいる人たち。
なかなか言葉にしないその思いにも耳を傾けてみてくれませんか?
まとまらない文章ですみません…。
読んでくださってありがとうございます。